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◇無外流居合兵道とは 自鏡流居合は六代で後継者が絶えたため、無外流伝承者に受け継がれてきました。現在の無外流居合は、無外真伝剣法の中で伝えられた自鏡流居合を、無外流中興の祖・中川士龍師範が無外流居合兵道として改めたもので、「無外流居合兵道」という言葉は、第十一代宗家 中川士龍申一先生の「造語」です。 自鏡流第五代宗家 山村 司 昌茂 先生に居合を教わり、無外流の稽古に本格的に取り入れたのは、第六代宗家 高橋 八助 充亮 先生とその弟である秀蔵先生であり、その居合を20本の形、3本の内伝に纏め上げたのが第十一代宗家 中川 士龍 申一 先生です。
一法実無外(一法実に外無し)(いっぽう じつに ほかなし) 乾坤得一貞(乾坤一貞を得)(けんこん いってい を う) 吹毛方納密(吹毛まさに密に納む)(すいもう まさに みつに おさめ) 動着則光清(動着すれば光清し)(どうちゃく すれば すなわち ひかり きよし) 兵内を改め月丹資茂(げったん すけもち)となし、流名を偈よりとり無外流としたのは、元禄六年(1693年)の事でした。 二十年の参禅により、一介の剣客でなく、剣者と共に禅者でもあり、学者でもあった月丹は、吸江寺を訪れる大名とも対等に語る事ができ、中には小笠原佐渡守長重、厩橋の藩主・酒井勘解由忠挙、土佐藩主・山内豊昌等がおりました。 元禄八年(1695年)、江戸の大火によって月丹の家も焼失したため、それまでの弟子数は不明ですが、元禄九年より宝永六年(1710年)まで十四年間の誓詞によると、月丹の弟子は、万石以上の大名三十二家、直参百五十六人、陪臣九百三十人とあります。一探求者としての人生を希望していた月丹は、大名家から、師範役として迎えたいとの度々の申し出を断り、厩橋藩(後年姫路藩に転封)酒井家には月丹の甥無外流第二代辻右平太を、土佐藩山内家には月丹の養子で無外流第三代、後継者の都治記摩多資英を推挙し、師範役としました。また伊勢崎の酒井家(分家)磯田某も右平太に学び、その流れは挙母藩(ころもはん、現在の豊田市)の内藤家に伝わっています。 月丹六十一歳の時、酒井忠挙の取り計らいで、御目見得の儀として五代将軍 綱吉に謁見の許可が出たが、不運にも綱吉死去により実現しませんでした。しかし、 一介の浪人剣客に御目見得の許しが出た事は当時破格の出来事でした。 剣者であり、禅者でもあった月丹は、剣と禅は一如であるとし、その内容・文章 の充実さに於いて一流とされる月丹が著した伝書「無外真伝剣法訣並序」の末文に、 「右無外真伝の剣法は禅理をもって教導致すところ、貴殿禅学御了知の上当流の剣法御懇望且つ御篤志につき…」とあり、門弟達にも参禅させ、禅学了知の上でなければこの「無外真伝剣法訣並序」を授けなかったということです。 月丹の没する三ヶ月前の姿は、袈裟を掛け、手には払子を持った高僧の姿で描かれているといい、また別の画には袈裟を掛けた姿ではあるが、右手に木刀を持ち、眼光鋭い剣者月丹が描かれています。 こうして家庭も造らず一生を不犯で通した月丹は、享保十二年(1727年)六月二十三日、 禅学の師・石潭禅師と同月同日、座禅を組み、念珠を左手、払子を右手に持って一生を閉じたといいます。七十九歳でした。 ◇財団法人 無外流とは 私たち「知進会」は「財団法人無外流」に所属し、新名玉堂宗家に御指導いただき、居合道の修養を通じて自らの心・技・体を磨き、社会や地域に貢献できるよう活動しています。 |
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